轟課長
英社員

英太郎のひとりごと episode10 Part-1

あれれーおかしいぞー

 こんにちは、英太郎です。episode10では、轟さんが「ほどほど」にという曖昧な言葉を使ったことに私が引っかかり、ストーリーが展開します。マンガの最後に轟さんは「しかし今回は、アスペルガー症候群のある英さんに対し、曖昧な言葉を使ってしまった私にも、大いに問題がありましね… 反省反省…」とつぶやいています。
 精神科医であり「明神下診療所」所長の米田衆介先生が著した『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?』の第三章「さまざまな症状とそれが生じる理由」には、アスペルガーは他人の「曖昧」な指示を理解できないとあります。曖昧な指示を理解できない理由として次のような記述があります。

 

ー引用ここからー

しかし、アスペルガー者が「曖昧な指示」と感じる指示は、実はほとんどの人にとって曖昧ではありません。というのも、たとえ形の上では論理的に不完全な指示であっても、ほとんどの人は「この指示によって、何が期待されているのか」を再構成することができるからです。
この再構成はあまりにも自動的に行われるので、ほとんどの人は自分が再構成を行っていることにすら気が付きません。そのためふつうの人は、その指示が「曖昧である」とはまったく感じないのです。なぜこのような再構成が可能なのでしょうか。それは、ひとつには、類推による思考が可能だからです。平たく言えば、前例を参照して「まねをする」という原理を用いるからです。
裏返せば、アスペルガー者には「まねをする」ことが難しい、ということになるわけですが、これは重要なことです。
たとえば周囲の人に「曖昧な指示は避けてください」と説明しても、それだけでアスペルガー者をとりまく問題を解決することができないのは、このためです。

ー引用終了ー

米田衆介『アスペルガーの人はなぜ生きづらいのか?大人の発達障がいを考える』講談社より 

 

 論理的に不完全な指示であっても、ほとんどの人は「この指示によって、何が期待されているのか」を再構成することができるとあります。
 さて、私の敬愛する上司の轟さんは、普段から仕事の指示命令を、主語、述語、目的語に作業の期限が明確で、私のようなASDでも勘違いすることが難しいくらいわかりやすい言葉や文章で出してくれます。ところが、3ヶ月に1回くらいの割合で、「あれれーおかしいぞー」←(名探偵コナン風に)と首をかしげてしまう曖昧な指示が出てくることがあります。
 例えば、昨日の終業の約1時間前に社内の専用チャットで私に来た指示です。

 

  直しましたが、外部から情報提供がありました。一応共有です。
    以下、外部から情報提供されたホームページのリンクの不具合や
    リンクのアドレスが張り付けてあり、文末は
  「○○となっているので併せてご確認ください。」でした。

 

 前出の米田先生の説明によれば、アスペルガー者が「曖昧な指示」と感じる指示は、実はほとんどの人にとっては曖昧ではないそうです。たとえ論理的に不完全な指示であっても、ほとんどの人は「この指示によって、何が期待されているかを再構築できる」から、指示が曖昧と感じることはないと説明されています。
 轟さんの指示は、所謂ふつうの人はどのように解釈して、何を期待されているか再構築できるのでしょうか。
 私は指示を一読しただけでは、轟さんの要求が那辺にあるのか皆目見当がつきませんでした。何度か読み返すうちに次のような行動を始めました。
 まず、その時行っていた作業が終わるやいなや、ホームページのリンクを確かめました。すべて正常に機能していることを確認して、轟さんに「一切の不具合はない、情報提供者はどこを見たんだろう」との内容をチャットで報告しました。
 ここまでが昨日のやり取りです。このエッセイを書き始めた今日は、轟さんは計画年休で出社してません。

 気が付くと、今朝早く轟さんから「直しましたよという報告です。」と返信のチャットが届いていました。私の頭の中は疑問符でいっぱいです。果たして私が昨日の終業前に大急ぎで行った作業も復命の報告も必要なかったようです。
 と言うことは、ふつうの人は前出の轟さんの指示をきちんと再構成して、単なる情報共有の通知として受け取れるようです。
 正直なところ、少しカチンと来ました。もう少し具体的に書いてくれればよかったのにとの思いもあり、先ほど今朝の轟さんからの返信チャットに対し、「あの内容のどこをどう読んだら直したの報告になるのかと、発信者を小一時間ほど追求したい(実際の文章は敬語を使ったビジネス用語です)。」と返信したところ、休み中にもかかわらず轟さんからすぐに返信がありました。
「最初の5文字で、直しましたと報告しているつもりでした。分かり難さの原因を明日教えてください。」と書いてありました。

 分かり難さの原因を教えてくれと、下に出てASDの理解を深めようとするところは、発達障がいのある社員をマネージメントする轟さんの、上司としての有能さの証明であると私は思っています。こんなことを書くと、結果的に以前の職場の上司の悪口になってしまうことは承知しています。しかし、自分の非を認めず頑迷固陋に自説に拘泥したり、はぐらかしたりするオジサンたちのなんと多いことか。 

 話が飛んでしまいました。それにしても、ふつうの人は何をどう再構成したら曖昧と感じずに情報共有と判断できるのか、私には全くわかりません。米田先生はふつうの人は類推することができるからだとも説明しています。チャットを受け取ったとき、私なりに何を期待(要求)されているのか随分と考えました。その結果取った行動が、ホームページのリンクを全て調べて異常なしと報告するでした。
 轟さんには「分かり難さの一番の原因は、最初の5文字「直しました」の後に加えた接続詞の「が」だ、と返信しました。併せて、このような書き方なら誤解することはないだろうと、具体的な文面を作りメールで送信しました。
以下、私が「が」の使い方を含め、なぜ再構成や類推ができなかったか、その理由を説明します。曖昧と感じ解釈を誤ったことの言い訳をするつもりはありません。曖昧と感じるASDの頭の中や、考え方はどうなっているか説明します。

上書きできない記憶媒体

 「が」の用法について、中学の時習った文法の記憶を引っぱり出し、併せて辞書で確認した内容をかいつまんで記します。「が」には接続詞と接続助詞の二種類あります。

 

 ①今日は雨だ。が、明日は晴れるだろう。
 ②今日は雨だが、明日は晴れるだろう。

 

①のように独立して使われると接続詞、②の雨だが、のように他の言葉とくっつくと接続助詞です。例文はどちらも「前で述べた内容から予想される内容とは別の内容」「前で述べた内容と対照的な内容」を接続詞、接続助詞を使って表しています。

 

 私の記憶には、接続詞、接続助詞の「が」は、「しかし」や「ところが」と同様に、前の内容を続く文章で否定するとの理解しかありませんでした。そのため轟さんのチャットにあった「直しましたが」の接続助詞を、私は「直しました。しかし~」の意味で理解しました。さらに張り付けられていた不具合データの文末は「○○となっているので併せてご確認ください。」です。
 以上のことから、私の頭の中にできた轟さんの指示は
「不具合は直した」しかし「○○を確認してください」です。
そして過去の経験から、「もし確認して不具合箇所があれば、運用を任せている外部業者に修復の指示を出せばよいだろう」が(この「が」は格助詞の「が」です)、轟さんからの指示とは別に、次にとるべき行動として頭にインプットされました。

 確認する範囲が曖昧だとは思いながらも、必要と思える箇所を全部調べて「不具合無し」と判断し轟さんに報告しました。私の報告に対する轟さんの返信は、「直しましたよという報告です(なぜ分からなかったの?)。」です。いやはやなんとも、私の気分は青菜に塩です。脱力しました。

 こうなってくると私のASD魂(なんだよ?それ)がむくむくと頭をもたげてきます。なぜ誤解が生じたか徹底的に調べたくなります。
さらに辞書を読み込むと「が」には単純接続の使い方もあるそうです。例えば、「彼女は美人だが、歌もうまい。」の「が」です。この場合は「美人である。and 歌もうまい」と理解するのだそうです。今回調べるまで、私は「美人である。but 歌もうまい」と解釈していてたので、意味の通らないおかしな表現だなあとの理解しかありませんでした。
 口語では「が」に新たな用法も加わってきていて、希望や要望を表す場合もあるそうです。例えば「水が飲みたい」や「肉が食べたい」の「が」です。
確かに耳にすることのある表現です。正しくは「水を飲みたい」「肉を食べたい」でしょう。また、「米、食いたい」のように接続詞自体を使わない表現も、テレビのひな壇タレントが口にしているのを聞いた覚えがあります。違和感以上に嫌悪感を覚えます。
 希望や要望の「が」が、広く人口に膾炙しないことを願うばかりです。

 辞書で調べるついでにgoogleで「が」用法を調べると、論文やビジネス文書では「が」は続く内容を否定する「しかし」の意味で使い、単純接続の「が」を乱用すると意味が伝わりにくくなると説明するサイトがいくつも出てきました。
興味のある方は「接続詞 が」で検索してください。
検索したサイトのいくつかの説明を読んで「美人だが、歌もうまい」に違和感を覚えていた自分の感覚の正しさを裏打ちされたようで、気分を良くしました。
 いろいろ調べて接続詞「が」の本来の使い方がはっきりしてくると、私の鼻息は俄然荒くなります。轟さんが迂闊に単純接続とも否定ともとれる接続助詞の「が」を使うからいけないんだぞー!と明日伝えようと思います。

 ここまでお読みいただいた方は、おそらく、なぜそこまで「が」に引っかかるんだ、何ら生産性のないことに時間を費やして何が面白いんだ、ASDのこだわりの発動かと感じていると思います。
 こだわりと言ったらこだわりかもしれません。自分でもよく分からないところがあります。私は、私のようなASDの記憶の方式は「DVD-R」と同じじゃないかと感じています。「DVD-R」ですから、一度記憶に書き込まれると上書きも変更もできないんです。私から見ると定型の人の記憶は、いつでも自在に書き換えや上書きができる「DVD-RW」に思えます。
 私は、接続詞の「が」は前の内容を否定すると書き込まれたDVD-Rしか持っていなかったので、今回のエッセイで題材にしたような混乱が起きました。
新たに知った接続詞「が」の用法は、なんとも気持ちの悪い使い方で認めたくはないのですが、(前の内容を否定する本来の接続助詞「が」です)新しいDVD-Rに書き込んで、頭の中のファイルに格納することにします。幸い頭の中のDVD-Rやファイルには制限がないので、パンクする心配はありません。
 こだわりではなく、新たな情報を書き込むための精査と表現すると、私の頭の中では、しっくり違和感なく収まります。

 
以下、part-2へ続きます。

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