英太郎のひとりごと episode13 Part-2
〈Part-2 べき論は予定である〉
こんにちは、英太郎です。
episode13 Part-2のタイトルは「べき論は予定である」です。
初めてこのエッセイをお読みいただく方はもちろん、ずっとお読みいただいてる読者諸賢も「ちょっと何言っているかわかんない?」と、漫才コンビの決め台詞《きめぜりふ》状態になるだろうなあと考えながらも、私はPart-2のタイトルを「べき論は予定である」としました。
従前から、ASDの私、英太郎の言動は「べき論」が基本にあると書いてきました。「べき論」とは、私の日々の生活や仕事、人間関係等々も含めて、何々はこうするべきと決りを作り、その決り通りに言動を起こす、或いは場面によっては言動を慎む等の私の言動の規範であり、その規範を違《たが》えることは否《いな》としています。
自分の「べき論」通りに事が運んでいれば安心です。しかし事前に「べき論」の準備ができない場面や「べき論」が通用しない場面に遭遇すると、いつも大いに戸惑います。さらにどうしてよいかわからない不安が強くなればその場から離れてしまいます。
その場から離れられないときは、息を止めるようにして大急ぎで頭の中にファイリングしてある似た事例を検索し、なんとかその場をしのぐよう力を尽くします。
そして周りに不安や狼狽《ろうばい》を覚られぬように振舞う———無益であり、定型発達の人にはありえない無駄な———努力をします。
私、英太郎個人のASDの「べき論」の説明を私がこのまま続けると、いよいよ読者諸賢は「個人の問題をASD者全般に敷衍《ふえん》するには無理がある」との感想を持たれることは想像に難く《かたく》ありません。
有体に言えば、読者諸賢の「ちょっと何言っているかわかんない?」が強まることを、想像力に乏しいと言われるASDの私でさえ危惧します。
そこで助け舟として、このエッセイで何度もお世話になっている本田秀夫先生の「あなたの隣の発達障がい」から、以前にも引用したことのあるASDの説明を引用して、読者諸賢の理解を大いに援けてもらおうと思います。以下引用します。
<引用開始>
ASDは、一言でいうと「融通がきかなくて困る」タイプです。対人関係で臨機応変な対応をすることが苦手で、自分の関心、やり方、ペースの維持を最優先させたいという本能的志向が強いという特性があります。(同書36ページより引用、障害を障がいに筆者変更)
<中略>
「自分のペースで物事を進めたい」という欲求が強いASDの人にとって、急な予定変更はなかなか受け入れられることはではありません。何かにこだわりやすいという特性は、予定を立てたらそのとおりになってほしい、という気持ちが強いことを意味します。(同書41ページより引用)
<引用終了>
もう読者諸賢にはお判りでしょう。本田先生のおっしゃる「自分のペースで物事を進めたい」とは、私の言動の基本にある「べき論」 ——— 何々はこうするべきとのルール ——— とは、表現は変われども意味は同じであることがご理解いただけると思います。
そして、引用にある「予定を立てたらそのとおりになってほしい、という気持ちが強い」とは、引用の後半にある「自分のペースで物事を進めたいという欲求が強い」と全く同義と考えても問題ないですね。
以上のように考えれば
「べき論」=「自分のペースで物事を進めたい」=「予定を立てたらそのとおりになってほしい」という等式が成立します。
そうすると、牽強付会《けんきょうふかい》じゃないかとの声が出るのは承知の上ですけれども、タイトルの「べき論は予定である」が成立しますよね(ちょっと弱気)。
さて、それでは「べき論は予定である」を前提にマンガに沿ってASDの頭の中の動きの説明を開始しましょう。
中学高校と男子校で学び、大学生となり始めて女性とデートすることとなった私は、参考書(パーフェクト恋愛マニュアル)?を購入し熟読の上でデートの予定を立てます。つまり「女性とのデートはこのようにあるべき」と計画し、細かいところまで予定を組みます。
しかし、実際は絵にかいたようなASDが発動した言動になってしまいます。
マンガの内容、つまりASDの言動を簡潔に説明すると、以下のようになります。
①自分で建てた計画通りに物事が進まないと気が済みません。(Aさんの場合)
②考えや行動に融通を利かせることが困難です。(Aさんの場合)
※女性と歩くことは、歩幅も早さも違うので、どうにも苦手です。街中で手をつないで歩いているカップルを見る度に、二人ともも歩きにくくないのかなあ、どちらが我慢しているのだろうと疑問を持ちます。
私の場合、手をつないだりしたら更に歩くペースが崩れて、足がもつれそうになります。これらが女性と歩くことが苦手な理由の一つ(他にも沢山あります)です。
ましてや予定を変更させられての散歩です。私にとって面白いはずはありません。無理して散歩に付き合わされているのに、それ以上を望まれても、何をしたら良いか見当もつきません。
こんな時に自発的に何かをして失敗した経験は過去に相当数ありますから、できる限りようすを見て自発的な行動は控えます。
そして、くどいようですが私の方こそ予定や計画を狂わされています。勢い仏頂面 ——— 無理を言って、漫画家さんに表情の描き込みをお願いしました ——— になるのも無理はないと考えます。
③同時に二つ以上の作業をすることが苦手で、自分の予定や計画を最優先してしまいます。(Bさんの場合)
※マンガからお分かりいただけるように、私は子どもの頃から鉄道と鉄道模型が好きです。ただし、所謂《いわゆる》撮り鉄ではないので撮影には全く興味はありません。
貨物時刻表やJRや私鉄の時刻表からそれぞれのダイヤグラム ——— 運行図表です、今は無料の作成アプリもあるので作るのが楽です ——— を作ったりHOゲージの鉄道模型を集めたり作ったりします。そしてそれら模型を走らせるレイアウト(ジオラマみたいな物です)の設計が大好きです。
漫画家さんにお願いして、マンガには、主に東海道本線の貨物を牽引した大好きなEF58をわざわざ描いてもらってます。
子どもの頃から欲していたEF58がやっと手にはいり、掌中の珠《しょうちゅうのたま》のように愛《め》でているときに電話が鳴りました。
「今は邪魔をするな あとでかける…」となるのは、私の中では理の当然です。何が問題なのか見当もつきませんし、考えたくもありません。
④ほめ言葉と悪口の区別がつかない。(Cさんの場合)
※ASDを説明する ——— どちらかというと出版が古い ——— 本を読むと、よく目にするASDの特性の一つに「ほめ言葉と悪口の区別がつかない」があります。
私にはどうも実感が乏しいASDの特性です。
いくらASDだと言っても、そこは人の子ですから、当然、周りの人と穏やかな人間関係を結んでおきたいと思っています。(私以外のASDも同じだと言い切る程の自信はありません)
いくら人間関係を希薄にして一人の気随気ままが良いと考えているASD(私にもこの傾向はあります)でも、態々《わざわざ》進んで周りの人に悪態をついて、人間関係をぶち壊そうなどとは考えていないでしょう。
私のようなASDは、episode9で紹介したように、見たまま感じたままを言葉にしているだけです。そこには特段の善意もなければ、もちろん悪意もなく、阿り《おもねり》も諂い《へつらい》もありません。
阿諛追従の徒《あゆついしょうのと》となり相手の気を引くなんてことはプライドが許しません。幇間太鼓《ほうかんだいこ》のような人から一番離れた場所にいるのがASDです。
こんなASDですから、女性をほめて気分を良くさせようと思って、何とか言葉をひねり出そうにも、そちら方面の語彙は元々少ないので対応に窮するか、口籠るばかりです。
これが、自分の好きな鉄道や恐竜に、明治維新を除いた日本史関連の話ならいくらでも話すことができます。
この項の締めくくりに説明したいのは共感力です。ASDは元々人に興味がありませんから、普段から共感とは縁遠い状態です。しかし、ものの本によると女性は共感を求めるそうです。
マンガのCさんは、おそらく彼女の置かれた状況について、なにか慰めのような共感を私に求めたのではないかと思いますが‥よく覚えていません。
私はただ、Cさんの話を聞き、状況を分析しただけだったと思っています。
それには良い悪いの批評や批判はありません、冷徹な状況分析とそれに伴う今後の見通しだけです。
⑤ハイコントラスト知覚特性が発動すると、白か黒か、或いは1か100かの極端な方向に進んでしまいます。
ASDのハイコントラスト知覚特性については、やはりこのエッセイで何度もお世話になっている米田修介先生の「アスペルガーはなぜ生きづらいのか」に分かりやすい説明があるので以下に引用します。
〈引用開始〉
「白か黒か」しかなく、杓子定規な考え方になるので、「グレーゾーンで適当にという発想がありません。これはたんに「中途半端が嫌いだ」という程度ではありません。そもそも「グレーゾーンがある」ということが認識できていないのです。同書47ページより引用)
〈引用終了〉
私はマンガの中で次のようにつぶやいています。
「恋人らしい演技をして 本音を隠して付き合い続けることは私にはできませんから」
私の頭の中には、「恋愛マニュアルにあった女性との深く穏やかなコミュニケーションや、夏になるとテレビの清涼飲料水のCMで目にする太陽の下で若い男女が浜辺を走り健康的に遊ぶシーンのような恋愛観」と、「それら以外は恋愛ではない」の二つしかなかったため、自分は恋愛に向かないと判断してしまったのです。
いまだに私は恋愛に向いているとは思いません。不器用なASDが迂闊に女性に言葉をかけたりしたら、今のご時世すぐ「変態」扱いされてしまいますから。
最後に、この原稿を書いて行き詰ったとき、たまたま気分転換に手に取った本が高校のとき読み、ほとんど内容を忘れていた「星新一の気まぐれ博物誌」の文庫本でした。
気まぐれ博物誌の「習字」と題するエッセイに次のような言葉がありました。
青春とはもともと暗く不器用なもので、明るくかっこよくスイスイしたものは商業主義の作り上げた虚像に過ぎない。
かりにそんなのがいたとしても、あまり価値ある存在とは思えない。
星新一、昭和43年のエッセイです。
私のハイコントラストは何だったのか、思わず脱力しました。
以下episode14に続きます。