英太郎のひとりごと episode14 Part-3
治らないから障がいなんです!
【障がいを受け入れたきっかけ】
こんにちは、英太郎です。episode14のPart-3はちょっと物騒なタイトルから始まります。
この言葉は、以前、私が40℃超の発熱(コロナではありません)で、緊急外来で病院に急ぐタクシーに障がい者手帳を忘れたことを回復(快復ではない)後に気が付き、発熱でぼんやりしていたから仕方ないと思いつつも、タクシー会社に問い合わせ、警察にも届け、それでも障がい者手帳が戻らなかったので、障がい者手帳の再発行の手続きに区役所の障がい者支援課に出向いたとき(説明が長いなあ)、窓口の担当者から聞かされた言葉です。
前後の事情が分からないと、窓口の担当者はずいぶんとひどいことを言い放ったように感じますねえ。しかし、その言葉を聞いたときの私は「なるほど、治らなから障がいなんだ。」と妙に納得してしまいました。
「治らないから障がいなんです」と言い切られるまで、私は自分の障がいを「ひょっとしたらなんとかなるかもしれない」と、頭のどこかで思っていました。
体の障がいは毎日の服薬治療で、発達障がいは自分の努力で何とかなるのではないかと思い込んでいたのです。
今振り返ると、これだけ自分を律しているのだから———周りからはどう見えようと当人はそのつもりでした———何か見返りはあって当然だと、何とも甘ったれた料簡《りょうけん》で過ごしていたのです。
障がい者支援課の担当者の言葉は、その言葉だけ切り取ると配慮が欠けているように感じてしまうひとが多いかもしれません。しかし私にとっては、それまでの甘ったれた料簡を一撃で粉砕し、現実に目を向けるきっかけとなった大変ありがたい言葉でした。
再発行の手続きのさなか、私の意識は甘ったれた料簡を一撃で粉砕してくれた「治らないから障がいなんです」にシングルフォーカスしてしまい、頭の中でいろいろな方向に考えを巡らせていました。
そのため、どのような前後の会話の中で、表現を変えればどのような文脈で担当者が口にしたのか一切記憶にありません。加えて恥ずかしながら、手帳再発行の手続きも、具体的に何をしたのか朧げな記憶さえありません。
シングルフォーカスしていた私は、おそらく(間違いなく)担当者の顔を見る振りをすることもなく、説明にも上の空の空返事《からへんじ》でかなり担当者をイラつかせたと思います。
しかし、窓口担当者は能吏《のうり》と見えて、私の手元には再発行された障がい者手帳があります。
私にとっては、「治らないから障がいなんです」との言葉は、障がいとは何かを正しく受け止めるきっかけになった言葉だったので、その時の優秀な窓口担当者にお礼を言いこそすれ、配慮不足だ云々と責める気持ちは全くありません。
【自主的に蟄居閉門・忌籠《ちっきょへいもん・いみごもり》・こうなったら籠城じゃ】
前項の「治らないから障がいなんです」は、発達障害の診断を受けた翌年の出来事です。そして、前回のepisode14 Part-2では、私自身が発達障がいのうち、かなり強い自閉症スペクトラム———このエッセイではASDと表しています———でADHDの傾向もあると診断されたときのようすを書きました。
自分では特段の意図をもって行動しているわけではないのに、組織から浮いてしまったり、私に対してのみ何故か上司がいつも不機嫌であったりする理由や、私が子どものころからずっと理不尽と感じた扱いの理由が自身のASDであると判明し、平仄が合い、それにより欣喜雀躍、手の舞い足の踏む所を知らずと心浮きたったようすです。
私のように診断結果を手放しで大喜びする人は少ないとカウンセラーや臨床心理士から聞いていたので、読者諸賢の何かの参考になればと書いた次第です。
前回のepisode14 Part-2に書いたように、私は診断を受ける以前から———実際には産業医に相談したころから———自分のASDの特性を理解したくて、市販されている発達障がいASD関連の本を相当数読み漁り現在に至ってます。
そこはASDですから、気になったことを納得が行くまで読んだり調べたりして整理して頭の図書館にファイリングすることは性に合っているので、所謂定型の人が想像する以上の情報に当たっただろうと思います。
当たった先は、相当数の書籍や、ネットに公開されている論文から出所の怪しいサイトまで手当たり次第すべてです。
一般参加可能な発達障がい関連の学会などを傍聴したこともあります。しかし、これら学会は人ごみの苦手な私のようなASDには向きません、苦痛ばかりです。
それ以外に学会などでは、何れ《いずれ》マンガで採り上げる予定の発達障がいの感覚過敏が私の場合強く発動してしまいます。
言葉は聞き取れない、ポスターや展示資料は色が強くて目がチカチカして読み取る事が難しかったりします。展示も明るい部屋だったり暗い部屋だったりです。
態々《わざわざ》費用を負担し時間を割いて、見ることも聞くことも不自由な場に行きたくはないので、今では学会の傍聴を敬して遠ざかっています。
これは私の個人的な事情なので学会の主催者や発表者を責めることは酷であることは承知しているのですが、私はかなり強めの色覚障がいがあるので、資料の中には色の区別がつかないものもたくさんあります。Excelの色指定のままのグラフや表なんてまず分かりません。
発達障がいの学会だから、もちろん色覚障がいにも配慮があるだろうと期待した、自分の世間修行が足らなかったのだろうと九割方は改善を諦めています。
私の色覚障害は濃い緑色の葉の中に咲いている赤い椿の花を一瞥では区別できない程度です。区別のつかないものは仕方ないし対策も治す方策もないと、子どものころにいつしか覚悟らしきものが出来ていました。
子どものころでもASDの積極奇異の発動はあるのでしょう、自ら機会あるごとに周りに色覚障がいを吹聴し、お前らと違うんだぞと一人悦に入っていたことも、覚悟の増強に力を貸していたのだと思います。
この色覚障がいが生活するうえで何とかなっているのだから、発達障がいも何とかなるのじゃないかと、それこそ何の根拠もないのに漠然と思いこんでいたのだと思います。
この場合のなんとかなるは、生活するに支障はないだろう程度の考えです。
しかし、前項の「治らないから障がいなんです!」で、こりゃあ「なんとかならないぞ」と臍《ほぞ》を固めた私は、それ以前に読んだ書籍を読み返したり、新たに発達障がいASD情報を集めたりを、以前にも増して取り組みました。
そこで得られた結論は、
「ASD当事者の生き方が楽になるような具体的なアドバイスが載っているような本は見当たらない」でした。
定型の人の理解が進むことを目的に、ASDの特性の解説が詳しく載っている本はそれこそ数多⦅あまた》あります。それらの本には、定型者がASD者とどう付き合うか———定型者がストレスを感じない方法ですね———や、言葉は悪いことは承知していますが、〇〇と鋏は使いようとでも言いたいような———当事者の僻目《ひがめ:思い違い、偏見》が多分にあると思いますが‥‥———ASD者の職場での活用法と思えるような内容に多くのページを費やしています。
しかし、ざっくばらんに言えば、ASD特性のある当事者側としては、具体的に社会生活をどうすりゃいいのかを知りたいのです。
例えば、組織における対人関係の距離の取り方や、不快感を持たれないような社内の異性への接し方などです。
振り返れば学生時代も含め入社したてのころから、自己啓発やメンタル関連の本も相当数読んできました。やはり定型向けに書かれた本ですから、内容や提言には一理ありながらも、ASDと分かる前の私には到底その通りの言動を行うことはできず、自己評価を下げるばかりでした。
自分が発達障がいASDと分かってからそれらの本を読み返すと、ASDの特性があるのだからそんなことできるはずないぞ!と、いくつかの本(書名は差し障りがあるので伏せます)を壁に投げつけたくなります。
ネットには、ASD関連本をたくさん読んだASD当時者が次のような投稿をしていました。
例:啓発本を読んで
「やらぬ後悔よりやって後悔したほうが良い」➡ やる気になったASDが行動を起こすも空気が読めずに空回りして失敗 ➡ 以前よりもっと悪い状況になって組織に居づらくなる」
もはや脱力と乾いた笑いしか出ません。
さて、そろそろ本来の予定にしたが行ってマンガの内容を解説していきましょう。episode14の冒頭で、私はいきなり一丸さんに強いストレスを投げつけてしまったようです。