英太郎のひとりごと episode15 Part-2
〈利き酒猪口《ききざけちょこ》の蛇の目模様〉
こんにちは、英太郎です。episode15のpart1では私がSSTに参加するようになった理由を縷々書き連ねました。
書きも書いたり、文字数にしておよそ9,000です。よくもまあ書いたものだと、この原稿を書いている現在では自分に呆れ《あきれ》つつも、さすがASDの英 太郎と、なにやら自嘲めいた含み笑いでほほを緩めています。
全国紙の新聞各社の社説の文字数の中央値が921だそうですから、社説およそ10本分の量を書いたことになりますね。社説ならばその新聞社の考えを述べる小論文ですから論旨明快(時々怪しい社説もありますけど)です。
さて、私の書いた文章を読み返すと、量こそ10本分あっても、論旨があっちに行ったりこっちに来たりし、加えて思い付きを述べるばかりで嵩《かさ》を増していて、論旨明快の対義語の不得要領《ふとくようりょう》の見本の文章のように感じます。
episode15では、カウンセラーは私のコミュニケーションとり方を「あなた(私のことです)のコミュニケーションは、自分の興味や自分の知見を深くするための質問と、自分の知識の披露と意見発表に尽きている。」と看破したと書きました。
どうも文章を書くにあたっても、カウンセラーの指摘の後半の「自分の知識の披露と意見発表」になってしまい、社説10本分にも及ぶ9,000字超になってしまったようです。
そして、自分で書いた文章を一定の期間を経てから読み返すと、「いかにもなASDの文章振り」であることが明快、かつ嫌というほどわかります。
読者諸賢に耳慣れない「いかにもなASDの文章振り」とは私の造語です。
「いかにもなASDの文章振り」とは何かを説明するには、ASDの「べき論」の世界からの説明が必要です。
part1の終わりでお伝えした、SST参加の顛末を説明するpart2の趣旨から遠ざかるように読者諸賢はお感じになるでしょう。
しかし、何回目(事実は4回目です)かのSSTで、私の自重《じちょう:自分のふるまいに気をつけ、軽率にならないよう、品位をたもつようにすること》と善意の行為で混乱が起きてしまった———主催者側からみるとぶち壊されただろうなあ———顛末、事実関係を説明するにはどうしても必要な事項なので、しばらくお付き合いください。
以前このエッセイに書いたように、私のようなASDは「べき論」の世界で過ごしています。
簡単に説明すると「べき論」とは、一つには、〇〇は嘉例《かれい:良いしきたり》・慣行に従い斯くあるべき、△△は嘉例・慣行に新しい解釈を加えてこうある、または、こうなるべきと、当事者が納得して行動(言葉も含む)を起こすこと、二つには、ばんやむなく予想外の変更が加わることがあっても、その変更は当人が受容でき得る範囲、具体的には、嘉例、慣行が示す物事の道筋の基本を外さない範囲であり、当事者の言動に影響を与えず当事者が安心して過ごせることです。
説明が前後してしまいました。上に書いた嘉例・慣行とは、ASD者が子どものころからの親や教師のしつけや教育に、それらにまつわる体験、書物や放っておいても耳目から入ってくる情報をもとに作り上げる社会での過ごし方です。
ASD者独自の社会ルールですから、定型者の社会ルールや不文律の慣行と一致する部分もあるでしょうし、まったく一致しない部分もあります。
「べき論」の世界を言い換えれば、自分が作ったマイルストーン———方向性を示した道標《みちしるべ》や計画と言い換えてもかまいません———通りに、物事が順調に展開し先の見通しがたち安心できる、自閉症ASD者が個々に頭の中に持っている世界です。
同じくこのエッセイで繰り返し説明した自閉症ASD者が個々に特徴的にもつ意識の世界を、私は自閉世界と呼んでいます。
私の自閉世界の中心には「べき論」の世界があります。自閉世界と「べき論」の世界は、利き酒猪口の蛇の目模様のように二重構造になっているとご理解いただけるとありがたいです。

「べき論」以外の自閉世界には、日々の生活の中で突発的に起こるいろいろな事象に反応した良くも悪くもの多くの経験の倉庫や、当事者が安心して心をほぐし身をゆだねることができる安心安寧の領域や、すべてを遠ざけ拒絶できる(できない場合もある)緊急避難場所などがあります。
当事者でないと少し分かり難いですね、自閉世界と「べき論」の世界の二重構造については稿を改めて説明させてください。そうでないと、またまた論旨が拡散してしまいますから。
〈いかにもなASDの文章振り〉
さて「いかにもなASD文章振り」の説明に進みましょう。上に書いたように、ASD者が個々に持っている自閉世界の中心に「べき論」の世界があります。定型者から見たら何の根拠もないのに、ASD者は森羅万象すべてのものに「べき論」が通じると信じ込み、「べき論」の世界で気持ちよく安穏に過ごしています。
すべてのものに「べき論」が通じると信じ込んでいますから、当然、自閉症ASD者の言動や考えは「べき論」の世界に使嗾《しそう:指図される、唆か《そそのか》されること》され拘束されます。
具体例を挙げて説明しましょう。
私をはじめとする多くのASD者は、ひとに何かを説明するときは「誤解を避けるために、一から十まで事実(感想や考えも含む)を正確に伝えなければならない」と、狷介《けんかい》な信念なようのものを頭のどこかに必ず持っています。その理由は、自分自身が一から十までもれなく説明されないと分からないことが多いからです。
そのため、一から十までの説明を聞いている定型者が、説明が冗長で要点を得ない———まさに不得要領そのものです———とイラついていることに気が付きもせず話し続けます。
私は「一から十まで説明する」は、「べき論」の世界に使嗾されたASDのこだわりの一つではないかと考えています。
そして、質《たち》の悪いことに、一から十まで説明すれば相手も理解すると思い込んでいますから、説明や会話が成立しないと相手に理解力が無いと思ってしまうこともあります。

一方、一から十まで説明した経験の中には、説明が分かりやすいや微に入り細に入りで説明が丁寧だと評価されるような成功体験も過去に一つや二つあります。
良いのか悪いのか、なまじASDは記憶力が良いものですから、数少ない成功体験を、それこそ微に入り細に入り———私の場合は映像のように———記憶しています。そして数少ない栄光の成功体験はASD者の自信の裏付けとなり、いっそう一から十まで説明したくなります。結句、「べき論」の世界がさらに強化されます。
数少ない栄光の成功体験と書いたように、一から十まで説明行為は、ほとんどの場合相手に不快感を与え反発を招き成功しません。
つまりASD者が腕まくりして一から十まで説明しようと力んだとしても、ASD者が全く意図していないことで相手から不興や怒りを買うことが畢竟多くなります。
しかしASD者は、自分の言動が相手の不興や怒りの原因であるとは露程も思っていないか、まったく考えていません。
一から十まで説明行為は、本能の導きのような「べき論」の世界に使嗾された言動ですから当然と言えば当然です。砕けた表現を借りれば、そもそもASD者は「自分が何かミスした」とは思っていないのです。

ASD者が一から十まで説明しようとしたときに、相手の不興や怒りを買うような場面に出くわしてしまった場合は、ASD者が社会人であれば、その場は自分の感情を抑え耐え、状況が変わることを待つのが通常です。ASD者と雖も《いえども》社会人ですから、作法として陳謝したり叩頭《こうとう:頭を下げること》したりすることもあるでしょう。
しかし飽くまでも耐えるですから、子どものうちは感情が暴発します。
もともと感情をコントロールが得意じゃないのがASDですから、耐えて作法通りに振舞うには、かなりの量の精神的なエネルギーを消耗します。
社会人のASD者(私のことです)は君子危うきに近寄らずと、爾後、一種の学習効果の発露として、説明して不興を買うような状況自体を避けたり、或いは特定の相手に対しては接触すること自体を避けたりするようになります。
読者諸賢はお気づきでしょう、これではASD者の人間関係の幅はどんどん狭まりますよねえ。でもASD者は孤高最高と、そんなことは歯牙にもかけません。
英語にしてみましょう。ASD者はlonelinessではなくsolitudeなのです。
辞書によるとsolitudeにはポジティブな意味があり、自ら1人でいる事を選び取り自由を勝ち取り、その生活を楽しんで満足している状態を表しているとあります。
言い換えれば「自立して自由な人」という表現が当てはまると思います。
The best thinking has been done in solitude. The worst has been done in turmoil. : 最良の思考は独りの時に生まれ、最悪の思考は混乱の中で生まれる。発明王トーマス・エジソンの言葉です。
〈これが「いかにもなASDの文章振り」だ!〉
長々と書いてきました。これによって私の頭の中でやっとこさ「いかにもなASDの文章振り」の説明の本題にたどり着けました。 先ず、社会生活において相手に一から十まで説明しないと気が済まないASDは、しばしば(ほとんどの場合かな?)定型者からASD者が意図しない反応を得ることがあります。
ASD者が意図しない定型者の反応の種類や内容に関しては、いちいち論う《あげつらう》ことを省略せざるを得ないを事情にご配慮いただけるとうれしいです。
定型者の反応をいちいち論うと、私の頭の中でいろいろな記憶が鮮やかに再現され、感情のコントロールが難しくなることが省略する理由です。
次に、一人で文章を書く作業は社会生活とは基本的に無縁です。社会生活で周りの人との対応で起こるような、ASD者が意図しない反応を定型者から受けることもなく安心して書き進めることができます。
もちろん編集者の意見(轟さんです)や読者の反応を意識はします。しかし、私は職業作家でもコラムニストでもない一介の会社員ですし、このエッセイのタイトルも「ひとりごと」ですから、誰憚る《だれはばかる》ことなく自由に想像の翼を広げて書くことができます。
つまり、一から十まで気が済むまで、自分が飽きてイヤにならない限り存分に書くことができるのです。
エジソンのように、独りのとき最良の思考が生まれるとはいきませんが、自分で納得できるまで時間を気にせず書く作業を続けられます。
まあ、これが原因で遅筆になり締め切りを大幅に超過し、轟さんが渋い表情を見せていることは分かっています。しかし、いくら遅延しようともASD者の本文を自分で矯めることはできませんから、誰に遠慮がいるものかと自分のペースで作業を進めています。
ここまで筆を進めると、私の造語「いかにもなASDの文章振り」の意味が読者諸賢には嫌と言う程お気づきいただけたのではと期待しております。
利き酒猪口の蛇の目模様のように自閉世界の二重構造の中心にある「べき論」の世界から言動が始まり、「べき論」の世界に使嗾され拘束され、相手の反応に構わず一方的にASD者が必要だと考える事項を一から十まで冗長に説明する。これらを文章にしたのが「いかにもなASDの文章振り」です。
要するにASD者は、自分が興味を持ったもの、或いは元々興味があったものに捉われると、周りの反応や時間の観念も忘れ自分が満足するまで、または飽きるまで、若いうちなら体力が続く限り突き進む、これを文章にしたのが「いかにもなASDの文章ぶり」なのです。
〈まとめ〉
ふうーっ、なんとか「いかにもなASDの文章振り」の説明ができました。
これまでの「いかにもなASDの文章振り」説明をお読みになって、読者諸賢は、ASD者は随分と自己中心的だと感じるでしょう。しかし、これが自閉症ASD者の事実であり頭の中なのです。
ASD者は脳の構造が定型者と異なるのですから、外からの圧力で定型者と同じ行動ができるように矯める———あえて矯正は使いません。矯正は正しい方向に直す意味合いがあります。私としては定型者がすべて正しいと考えていないので矯めるとしました。———ことはできません。
自閉症スペクトラムやASDを説明する本にある、コミュニケーション(対人関係)の障がいや、強いこだわりや限られた興味などの解説と、私がこのエッセイで書いてきたASD者が「いかにもなASDの文章振り」になってしまう理由の管々しい《くだくだしい》説明の内容が一致することに読者諸賢はお気付きなったと思います。

イラストは自分の世界に没頭(ゲームです)
していて周りの状況に意識が向いていないASDの
男の子です。
しかし、男の子が親との決まりでゲームをしてよい時間にゲームに集中していたとしたらどうでしょう。
つまり、ゲームをしてよい時間と親と決めていた時間に予定通りの行動(ゲームに集中)しているのですから、周りの変化に気を配るなんてできません。
もし私がイラストの男の子だとしたら、たとえ火事でもなかなか気が付かないかもしれません。
要はシングルフォーカスです。
そして、予定通りのASDの男の子の行動を、自分の世界に没頭すると周りの変化に気付かないASDの障がい特性の発動だから仕方ないと問題行動のように評価されたとしたら、ゲームをしているにASDの男の子が気の毒です。
さて、考えや言動が「いかにもなASDの文章振り」になってしまう私がSSTに参加しました。予定変更となってしまい申し訳ありません。Part3でその顛末をお伝えいたします。
(以下part3に続く)