轟課長
英社員

英太郎のひとりごと episode15 Part-3


〈金科玉条⇒承詔必謹⇒諫諍・騒擾のSST参加の顛末〉

 

ちょっと長い前置き(助走)
 こんにちは、英太郎です。
またまた読者諸賢にとって、普段の生活では見慣れない熟語をpart3のタイトルに性懲りもなく並べてしまいました。

 

 突然で申し訳ありません。ASDを解説する本にあたると、子どものASDの特徴の一つとして年齢に合わない難しい表現や言葉を使うと出てきますね。

 

 私は以前このエッセイで、自分の心境やその場の状況を表現するためには、形容詞や比喩を使うレトリックに頼るよりも、切れ味の良い四字熟語を使っての、刺身の切り口がどれも鋭角にピンと尖るような切り口鮮やかな表現が好きだと書きました。
 身近な例を挙げましょう。私は「あけましておめでとうございます」よりも「謹賀新年(謹んで新年を賀す)の方を好みます。「一生に一度だけ」よりも
「一期一会」の方に清々しい潔さを感じます。

 

 と、言いながらも四字熟語の説明にレトリックで刺身云々と比喩を使っていますねえ……タハハ。

 

 話を戻しましょう、今までのエッセイを読み返すと、普段の生活では見慣れない熟語や古事成句や四字熟語が並んでいると我ながら思いました。
多用される熟語や古事成句や四字熟語を読み返すうちに、私がこれら難しい表現を好んで使うのは、「ASDの子どもの特徴の一つである年齢に合わない難しい表現や言葉を使うことと同じではないか」と、読者諸賢に指摘されるおそれがあると気づきました。
 読者諸賢の「英太郎はASDの子どもと同じじゃないか」との指摘は、ほぼ正鵠を射ている———この表現も堅苦しくて難しい表現ですねえ———と私は思います。

 

 雀百まで踊り忘れずとは、幼いころに身に付けた習慣はなかなか改まらないと言う意味ですね。
 私は、ASDの子どもが難しい表現を使うことを、幼いころ身に付けた習慣というつもりはありません。ASD者は、おそらく特有の脳の機能の使い方や独特な思考回路によって、幼いころから難しい表現を好んで使っているのだと考えます。

 

 子どもの頃から所謂ふつうの人と異なる特有な脳の機能の使い方や独特な思考回路があるゆえに、自閉症スペクトラム障がい(このエッセイではASDと記しています)と診断されていると思います。

 

 私は上に「英太郎はASDの子どもと同じじゃないか」との読者諸賢の指摘はほぼ正鵠を射ていると書きました。ほぼと幅を持たせたのは、今の私は単にASDの子どもと同じではないからです。

 

 障がいですから、ASD特有の脳の構造や思考回路は成人してもそのまま変化がないうえ、成長に伴い当然のように語彙も拡大します。それにより単に難しい表現を好むだけではなく、熟語や古事成句や四字熟語など(時々外来語もある)の表現を好んで使ようになったのだと思います。
 そうです、私はASDの子どもと全く同じではありません。

 ずいぶんと牽強付会な理論展開であることは自分でも承知しています。

 今まで長々と書いてきたことを箇条書きにすると
 ①英太郎はASDである。
 ②ASDの子どもは難しい言葉や表現を好む。
 ③ASDの子どもは②の特性を持ったまま成長する。
 ④成長により障がいに強弱の変化はあってもASDの特性がな
  くなることはない。
 ⑤成長に伴い語彙も拡大する。
 ⑥ゆえに、英太郎はASDの子どもと同じと言われるのは不本意だ。
 書いていて恥ずかしくなるような「いかにもなASDの文章振り」ですねえ。
単に子どもっぽいと呼ばないでほしいと言えばいいものを、くどい限りです。

 

〈SSTの事前準備と言い訳〉

 part1の終わりに「理論武装とはいえないまでも、SSTという新しいもの挑戦する恐怖に近い不安感をだいぶ押し戻すことはできたように感じます。」と書いたように、私は新しいものに取り組むとき、たいてい恐怖に近い不安感で戦々恐々としてしまいます。
 しかし、社会生活の経験から怯えてばかりではいけないと己を叱咤激励し、でき得る限りの事前準備をします。孫氏の兵法で言う「彼を知り己を知れば百戦殆うからず」の実践です。 

 

 まずGoogleで「SST」と検索しました。そしてSST普及協会のホームページを熟読しました。いくつかの動画も視聴しました。次いで「厚労省SST」で検索したら「発達障がい専門プログラム ワークブック‐厚生労働省」と「発達障がい専門プログラム マニュアル‐厚生労働省」がみつかりました。
 それぞれPDFでA4サイズ50ページに及んでいました。早速印刷して精読です。
 このあたりの対策はマンガepisode13「英さんの恋愛」で恋愛マニュアルを読み準備した行動と同じです。
 そしてマニュアルとワークブックを精読し内容を把握———賛同できない内容もあったので理解ではありません———したうえで、前日から武者震いのような緊張感に耐えながら初回のSSTに臨みました。

 

 私がこれ以降に書く内容は、受け止めようによってはSSTを否定しているように読者諸賢はお感じになるかもしれません。
私にはSSTを否定する意図は全くありませんし、参加したことによって身に付いた「抜き手で社会を泳ぐ方法:初級編(命名および編集は英太郎)」もあります。
 単にWISC-Ⅲで言語性が異様に高く知覚統合が低めで、二つの差異が約60あった成人のASD男性の感想と受け流してください。

 

〈金科玉条⇒承詔必謹〉

  行政が主催する、私にとって生まれて初めてのSSTに参加しました。
 初回だけ行政側の主催者(運営責任者かな?なにか挨拶をしていましたけれども、意識していなかったので男女の別も含め全く記憶にありません)がいました。
 講師(30代から40代の男性、リーダーと呼ぶそうです。)1名に助手(スタッフと呼ぶそうです)2名(学院生かそれ以上の年代の女性)、参加者は私を含め成人男性6名と女性2名でした。みんな胸に大きな名札を付けます。 

 

 さて、金科玉条です。
 金科玉条を辞書で引くと、「この上なく大切にして従うべき決まり」や、「必ず守るべき、極めて大事な、究極的な決まり事」等々の説明が出てきます。
果たして私が参加したSSTの初回(第一回)のプログラムは、事前に私がSST参加の準備として精読した「発達障がい専門プログラム マニュアル‐厚生労働省」の第一回のプログラムと全く一致していました。加えて、当日配布された資料に書かれていた、二回目以降のSSTのプログラムも、厚生労働省(以下、厚労省と書く)のマニュアルと全く一致していました。

 

 行政の主催するSSTだから、責任の所在を明らかにするために厚労省のマニュアルを「金科玉条」としているのだろうと気づき、私は早くも鼻白む《はなじろむ》思いでした。
 おっと、ちょっと聞きなれない表現の鼻白むでは、その時の私の心境を所謂「しらける」と勘違いする方がいらっしゃるかもしれませんね。

 

 鼻白むとは、興醒めすると言うような意味です。
 私の場合は、いろいろ準備して武者震いとともに臨んだ初回のSSTで、厚労省のマニュアルと寸分違わぬ内容のプログラムを見せられ、SST何の其のと勇み立てた気分に冷水をかけられたような、出鼻をくじかれたような気分になり、一気に興醒めしたまでです。やる気をなくすような意味合いの「しらける」では私の本心とかけ離れてしまいます。

 

 また、ふつうの人なら、準備していた内容と同じであると試験で山が当たったような安心感を得るのかもしれません。私は、ふつうの人の頭の中については想像するしかないので、安心もしくはラッキーとでも思うのだろうなあとしか書けません。
 ついでですけれど、私は学生時代から試験に際して山を張った経験がありません。示された試験範囲はすべて対策し、そのうち自分が苦手と感じているところを殊更補強するばかりでした。

 

 話を戻しましょう。読者諸賢は、ASD者は先の見通しが立つ方が安心するはずなのに、厚生労働省のマニュアル通りに展開する予定のSSTならば、先の見通しが立ち安心して臨めるだろうに、鼻白むとはどういうことだ?と疑問をお持ちになっていると思います。

 

 厚労省のマニュアル通りで先の見通しが立つ。確かに安心です。しかし武者震いするような緊張感で挑戦した未体験の新しいものの先の展開がすべてわかることは、私にとって何ら知的な刺激を期待できません。
 卑近な例ですが、ストーリー展開が簡単に想像できる陳腐な映画や小説では楽しむことが出来ないことと似ていると思います。
 鼻白む気分で初回のSSTは始まりました。厚労省のマニュアルと同じく(少しくどいですね)オリエンテーションから始まりました。

 

 続いて承詔必謹《しょうしょうひっきん》です。
 承詔必謹とは604年に成立した聖徳太子の一七条憲法の第三条にある文言です。詔《みことのり》を承れば必ず謹め《つつしめ》の漢文表記ですね。
 私がこの言葉を知ったのは小学4年の夏休みの終わりでした。近所のお寺のお坊さんと私が話し合いで決めた夏休みの過ごし方の決まりを、飽きが来た私が破ったときにお坊さんから聞かされた言葉です。
 お坊さんにお世話になった経緯《いきさつ》を書くと、私のことですから、それだけで短編小説一編くらいの分量になってしまうでしょうし、その経緯は本エッセイの主旨と異なるので省きます。機会があればご披露したいと思います。

 

 お坊さんは、親や先生———医者と坊主と年長者も含んでいたと記憶しています———からの言いつけは必ず守らなければならないことの例えとして「承詔必謹」を持ち出しました。対面に正座させられている私に諄々と諭すように、時には語気を強めてお坊さんは話します。要は説教です。畏《かしこ》まって聞いている振りをするしかありませんでした。
 その頃の私に今と同じくらいの語彙や知識があれば、「悪法もまた法なり」かよと 尻を捲り⦅けつをまくり》啖呵を切り———ちょっと品のない表現で申し訳ありません。しかし逆切れや開き直りとは少し違うのでこの言葉を選びました。———不貞腐れるくらいはできたのではないかと思います。

 

 さてSSTに戻りましょう。私は上のSSTの事前準備と言い訳の項目に、厚労省のSSTのマニュアルとワークブックの内容に賛同できない内容もあると書きました。
 賛同できない内容を書き連ねることは、私のうっぷん晴らしには寄与しても、読者諸賢にはSSTの対する批判と受け止められる虞があるので、敢えて採りあげないことにしたいと思います。但し、繰り返しますが、これから書くSSTのグループワークで起きた出来事が、読者諸賢のSSTに対する考えを深めていただく切っ掛けにでもなれば有難い、と私は考えています。

 

 一回目、二回目、三回目とSSTは進みました。一回目の自己紹介とアイスブレレイクには閉口し湧き上がる苦笑を抑えることに苦労しました。二回目以降に必ず行われるウォーミングアップには、辟易しながらも「承詔必謹、承詔必謹」と念仏のように頭の中で唱えながら積極的に参加している演技を続けました。
 自己紹介とアイスブレレイクについての閉口と苦笑の理由の説明は、紙幅に限りがあるので別の機会にしたいと思います。その代わり、辟易したウォーミングアップについては少し詳しく説明いたします。

 

 ウォーミングアップについて、厚労省のマニュアルにはその目的を

 
 ①メンバーの緊張をほぐし、プログラムにスムーズに移行することが目的。
 ②ウォーミングアップを通して、お互いのこと知り、グループの凝集性を高
  める。(太字ゴシックは筆者による)
と記述しています。 

 凝集性と来ました。
 episode14で私は「サークル活動風というか、肩を組んで盛り上がる、喜びを分かち合うみたいなのは気持ち悪いんですよ。」と、端から凝集性を峻拒《しゅんきょ:きびしく拒絶すること》する言葉を一丸さんに突きつけ、彼を憤懣やるかたないと言うべき状態にしてしまいました。
 私のようなASDと凝集性とは相性が悪いようです。どうやっても頭の中で折合いをつけることができません。
 凝集性についての私の捉え方は上に「気持ち悪いんですよ」と書いたとおりです。これがウォーミングアップに辟易した理由の一つです。

 

 承詔必謹で過ごすウォーミングアップに続くプログラムでは、他者とのコミュニケーションの取り方で、自分には思いもつかない他のメンバーの言動を目の当りにすることで、挿絵のように「抜き手で社会を泳ぐ方法:初級編(命名および編集は英太郎)」を身に付けることができました。これは大きな収穫です。

 
 

 私のSSTの参加の一義的な目的は、episode15 part1でカウンセラーにアドバイスされた、「他者の話を、聞く、聞き出すことができれば(あなたがダブルスタンダードだと言う)一般の人の基準の理解が進むだろう。
 だから、SSTに参加することで話を聞く、聞き出す手法を身に付けるべきだろう。」でした。

 

 そして、SST参加の事前準備として厚労省のSSTマニュアルを読むうち、マニュアルに書かれていたSSTの目的の一つであった「自分に合った処世術を身に付ける」が、私のSST参加の目的の一つに加わりました。

 

 上に大きな収穫と書いた「抜き手で社会を泳ぐ方法:初級編」とは、他者の話を聞く、聞き出す手法として、自分以外の参加者の言動や、リーダー、スタッフの指導や指示から誘発、惹起され、自ら身に付けることが出来た自分に合った(自分にも可能と思える)処世術です。
 しかし、身に付けたとここに書いていながら、実際に適切なタイミングでその処世術を発揮できているか自信は全くありません。カウンセリングでカウンセラーに判断してもらうしかないだろうと思っています。
 自分で書きながらイヤになります。こんなところでも白黒はっきりしないと我慢でないASDの特性が、どうやっても表出してしまいます。

 

 以上のような目的———グチも入ってしまいました———でSSTに参加しましたから、私には、他のSST参加メンバーと仲良くなろう、悩みを共有しようなんて言う甘ったれた意図は全くありませんでした。これらが肌に合わない凝集性と同様に、ウォーミングアップに辟易した理由であると思っています。

 

〈諫諍・騒擾〉

 諫諍《かんそう》とは、臣下が直接主人に向かって、間違っていると思料する点を、礼を尽くして申し上げ改めるよう諫めることです。
似たような意味の言葉では諫言や諌止、諌死(これはちょっと違うな)などが思いつきます。

 

 リーダーから「物腰が柔らかくて好感触です。」スタッフに「今の表情と声のトーンいいですよ」とほめられ気をよくした私は、リラックスできるようになったのか、それまでは気が付かなかったリーダー、スタッフ、それに他の参加者の言葉遣いが気になるようになりました。

 

 以前からここに書いているように、ASDの私は「べき論」の世界で生きています。もちろん言葉遣いも「べき論」に含まれます。
では、SSTで私が気になった言葉遣いの一つを挙げてみましょう。

 

 「英さんの今の○○はよかったかなと思われます。」

 

 リーダーが上のような言葉で私を評しました。評したとしたには理由があります。私にはほめられたのか疑問を呈されたのか分からなかったからです。
 上の言葉に私が感じたように句読点や疑問符をつけてみましょう。

 

 「今の○○はよかったかな?と、思われます。」

 

 いかがでしょう、疑問符と続く読点で、随分と意味合いがぼやけて曖昧になってしまうと読者諸賢はお感じになりませんか?
語尾の「思われます」も「思います」と言い切れば、英語の「I think」に相当します。「思われます」を和英辞典で調べると「It seems」です。直訳すれば「△△と見える」で、主語もIからItに変わります。

 

 私が実際に耳にしたリーダーの言葉のアクセントは

 

「今の○○はよかったかな?⤴と、思われます。⤵」でした。

 

 このようなアクセントでリーダーは言葉を発したので、私は「今の○○は、他にもいろいろ良い方法があるけれど、それほど悪くないかもしれない(特段良いわけでもない)、と周りの人からは見えるのじゃないかなあ。」と理解しました。
 こうなると、ほめられているのか、注意(指示)されているのか、或いは渋々ながらも合格点ギリギリだと言われているのか、それともこれら以外の何かが言外にあるのか、私には判断がつきかねます。
 ざっくばらんに一言で言えば、以前にも使った漫才師の決め言葉「ちょっと何言っているか分からない」状態です。

 

 そこで意を決して諫諍の挙に出ました。上に書いたように、リーダーの言葉遣いにより引き起こされる混乱と、原因となるリーダーの言葉遣いの意図をリーダーに問いました。もちろん諫諍ですからリーダーに十分な敬意を表し、態度も言葉も遜り《へりくだり》、これまでの社会人の経験から私から具申のタイミングも、周りのメンバーの気分の変化にも十分配慮しました。

 

 おそらくSSTの訓練も社会生活の経験も不足していたところに、ASD特有の場の空気読めないが拍車をかけたのでしょう。リーダーもスタッフも私の問いに目を丸くして固まり、他のメンバーも含めしばらく無言の時間が過ぎたのち、リーダーがゆっくり言葉を発しました。「ほめているつもりです。」と。
 その際のリーダーの態度は、私には危険を察知し首をひっこめた亀が恐る恐る首を出してあたりの状況をうかがっているように見えました。

 

 人の感情の動きに気が付かないASDの私でさえも、リーダーの「ほめているつもりです。」の後に、言葉に出さないまでも「(私が)そのような疑問を抱くことを理解できない、または何を言いたいのか分からない。」が続いていたであろうことくらい推測は出来ます。
 また、この文を書きながら新たに気が付きました「流れのジャマをするな!」もリーダーの頭の片隅にはあったかもしれません。加えてテレビのニュースを眺めていると、言葉が命の政治家でさえリーダーと同じような口調で話しています。どうも、ぼやけた曖昧表現は、私の知らないうちに日の目を見て、広く人口に膾炙しているようです。

 

 私の意を決しての諫諍は不発でした。不発というよりは、歩兵携行式多目的ミサイルのジャベリンか自走多連装ロケット砲のハイマースのように直撃弾を命中(ちょっと不謹慎かな?)させてしまったようです。

 

 最後に騒擾《そうじょう》です。
騒擾とは集団で騒いで社会の秩序を乱すことです。SSTに続いたCESの問題と解答をグループワークで作るときにそれは起こりました。

 

 何かの足しになるかと思い10年くらい前の私の経験を話しました。その頃の私と同年代の女子には「ロデオクラウンズ」の男性用のスタジャンを羽織ることが流行っていたようでした。彼女たちはそれについてずいぶん騒いでいましたし、池袋の店舗にも付き合わされたことがあったので、いかなそちらに疎い私でも情報として知っていました。

 

 あるとき女子の一人が新しいスタジャンを羽織って、これ見よがしに私の前を横切りました。彼女のスタジャンには背中にRODEO CROWNSと大きく書かれていましたから、私のような、男女問わず相手の着ているものに強く意識を回さないと何を着ているかまるで気が付かない———その代わり意識するととてつもなく細かいことにまで気が付きます———ASDでさえ、彼女のスタジャンが「ロデオクラウンズ」であるとすぐわかりました。

 

 人をほめる、ましてや同年代の女子をほめるなんてほとんど経験のない私が、そのとき彼女をほめるつもりで正直に発した言葉は
「ロデオクラウンズのスタジャンだね、かっこいいね。似合う、似合わないは僕には分からないけど … 」でした。

 

 それを聞いたメンバーもリーダーもスタッフも大騒ぎです。特に女性は口々に「なんてひどいことを!」と私を口撃します。男性メンバーは居心地が悪そうに俯いています。

 

 「似合う、似合わないなんて見る側の個人の感情によるものだから数値化できない。CESの回答として、良いとか悪いとか定義や分類すること自体に無理があると思う。」
私の精一杯の反撃です。
 続くグループワークの状態は、一言で言えば騒擾でした。スタッフの女性も口撃側にいましたから、リーダーの制御も効きません。

 

 以上が、私がSSTに参加した顛末です。
「べき論」の世界に生きていて、定義があいまいな物に耐えられない私のようなASDは、「べき論」や物事の定義が共有できない人たちとのコミュニケーション自体に無理があるようです。

 

 次回はepisode16「木を見て森が見えない」です。大人のASDのシングルフォーカスについて詳しくて説明します。

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