英太郎のひとりごと episode7
こんにちは、英太郎です。今回も前回に引き続き、自閉症と想像力について考える予定です。が、本題に入る前に用語を整理しておこうと思います。
このエッセイを書いている2020年2月ではアスペルガー症候群(ASD)という名称は、医学界等では使われていません。正しくは自閉症スペクトラム障がいと言います。前回でも取り上げたアメリカの精神医学会が出版した精神障がいの診断と統計マニュアルのDSM-5により、従来はいくつもの障がいに分類されていた疾患を一つの診断名に統合して「自閉症スペクトラム障がい」と言う名称に変わりました。
自閉症には年齢や知的発達の状態、症状の程度などによりさまざまな症状があるため、「スペクトラム」(連続体と言う意味です)としたそうです。さらに従来分類していた疾患群の間には明確な境界線がなく、互いに重複することや、症状の現れ方も、重症度や年齢などにより変化することがあるため、区別せず連続体として捉えるという概念だそうです。
このように整理して書いていても、私としてはどうにもしっくりきません、頭の中の資料室に寸分の狂いなくピタッとハマりません。ずいぶんなこだわりとは重々承知しています。こんな理由で私は自閉症スペクトラムを使わず、このエッセイではアスペルガー症候群(ASD)を使っています。
DSM-5は医師向けの専門書で素人には難解なので、自閉症スペクトラムの解説でもう少しわかりやすいものはないかと調べると、必ずと言っていいほど自閉症スペクトラムの診断基準としてローナ・ウィングの三つ組みが出てきます。
1.社会性(対人関係)の障がい
2.言語コミュニケーションの障がい
3.想像力や柔軟性が乏しく、変化を嫌う想像力の障がい
今度は「想像力や柔軟性が乏しい想像力の障がい」と来ました。
前回にも書いたようにアスペルガーにも想像力はあります。やっと今回の本題にたどり着きました。自閉症スペクトラムの診断基準の「想像力の障がい」とはなにかについて引き続き考えます。
想像力の障がいとはなにか
物の本によると、アスペルガーは子供の頃ごっこ遊びをあまりしないとされています。確かに唱歌にある「運転手は君だ車掌は僕だ」の電車ごっこや、ままごとをやった記憶が私にはほとんどありません。本の説明によると、ごっこ遊びができないのは、運転手や車掌の気持ちを想像できないからだそうです。
想像力というより空想力に近い一人遊びは随分とした記憶があります。自分が〇〇だったらと、空想の翼をどこまでも広げます。子供の頃の空想の翼を広げている時間の心地よさは今でもしっかり覚えています。心地よい時間を「ごはんだ」や「宿題やったか」とぶち壊されたときの怒りも忘れずに覚えています。
ぶち壊されたときの怒りで気が付きました。ごっこ遊びが苦手(私の場合は大嫌い)なのは相手がいるからだと思います。一人で空想しているときは自分を基準にすべてのことを考えていればいいのですが、ごっこ遊びでは相手の気持ちを想像して合わせて行かなければごっこ遊びになりません。そのため自分の基準が壊されてしまい自由に遊ぶことが出来ず怒りを覚えましたのです。自分基準の空想の世界なら、このような怒りは起ころうはずもありません。
後にも先にも一回しかやったことがないままごとで——保育園の時ですから4歳か5歳です——お父さんの役をやらされて、お母さん役の女の子の言葉を待って、それに合わせて遊びを展開していくことに強烈なイラ立ちを覚えた記憶があります。相手が何を言い出すかわからないから、こちらで前もって言葉を用意することが出来ないのです。つまり斯くあるべしも体験記憶も全く役に立たない、次に何が現れるか予測のできない状態です。これはアスペルガーや自閉症にとっては一種の拷問です。
唐突ですが、テレビアニメのクレヨンしんちゃんを例にします。男の子たちは嫌々ながらままごとに付き合うと、女の子の要求にとんでもない反応をしたり、勝手に自分の世界に引っ張り込んだりで笑い取っています。
現実の世界はそうはいきません、相手の要求が分からず、何がその場にふさわし行動か分からなくなっている、一種の拷問状態に置かれているアスペルガーや自閉症の子は、極々まれに当てずっぽうがうまくいき、その場相応しい行動をとることが出来ます。しかし、たいていの場合は固まるか、とんでもない方向違いの行動をとるか、その場から逃げ出すかです。結果的に、相手に合わせることが出来ない子供は仲間外れになります。
このように考えてくると。自閉症スペクトラムの診断基準で言う想像力の障がいの想像力とは、その場その場で臨機応変に相手の気持ちを想像することではないかと思います。
記憶の集積所
アスペルガーの私を含めた自閉症のひとは、個々の体験記憶(私の場合いは体験記憶に加えて斯くあるべきがある)の世界に生きています。体験記憶や斯くあるべきの世界は、その世界の持ち主個々の独自な方法で、過去に体験した記憶を整理して格納しています。
私の場合は、頭の中に図書館の書庫や書棚のようなものがあり、記憶の集積所として、すべての記憶を内容ごとに整理分類して、それぞれにタグをつけてファイリングしている具体的なイメージがあります。
余談ですが、私は私の頭の中の図書館を、春日部の地下神殿に蔵書数世界最大で知の集積所と言われるアメリカ議会図書館を設置したようなものだとしてイメージしています。
episode6で一丸さんの一言でパニックを起こし、episode7で混乱して何をしていいかわからず動きが止まってしまった沖田さんも、私と同じように何らかの形で体験記憶の集積所を持っています。
ひとから何か言葉をかけられたとき、アスペルガーの私が必ず頭の中で行う作業があります。この人は何かを私に問うているのか、仕事のことなのか、世間話なのか、何かの指示や依頼なのか、暇つぶしなのか、急いでいるのか等々を判断するために、頭をフル回転させて自分の記憶の集積所を検索し、その場に最適であろうと思える次に自分の行うべき言動を算段し見当をつける作業です。この作業は、やらなくて済むのならそれに越したことはないと思いつつも、社会生活をできる限り円滑に送るために必要な作業と学習しています。
社会生活を円滑に送るためと考えると、知的障がいの有無にかかわらず、ほとんどの自閉症のひとも行っている行為だと思います。
ただし、私だけではないと思いますが、この作業、ものすごくエネルギーを消費します。残りのエネルギーは僅かです。「とてもじゃないけど相手の気持ちを想像することにまでエネルギーを割く余裕なんかあるもんか!」が本音です。
相手の気持ちが想像できないのですから、どう算段しようが検討をつけようが、行った言動がその場にふさわしいとは限りません。空気が読めないと言われる所以です。日々の社会生活では、努力の割に報酬はマイナスばかりが続きます。
「なんとかしてくれよ」これがもう一つの本音です。
想像力が無くても分かる言葉がけ
沖田さんは「ふわふわの方かけてもらっていいですか」と一丸さんに言われ、どうしてよいかわからずに固まってしまいます。おそらく沖田さんは必死で自分の記憶の集積所を検索したと思います。でも解が見つからなかったので、どうしてよいか分からず考え込むばかりです。
もし、沖田さんに臨機応変にその場その場で相手の気持ちを想像する力があれば、間違えなく一丸さんの望む行動に移せたと思います。
定型発達のひとなら「~してもらっていいですか」と言われれば、言葉をかけてきたひとは自分に何かやってほしいのだろうと想像できます。マンガにあるようにふわふわを手渡されれば、ふわふわの用途であるホコリ取りをすればいいのだろうと想像して行動を開始できます。
知的障がいがあり語彙の少ない沖田さんの記憶の集積所には「~方してもらっていいですか」が、指示ならびに要請であるとの体験記憶がなかったのです。さらに臨機応変にその場その場で相手の気持ちを想像する力がありませんから、一丸さんが自分に対し何を求めているのか全くわかりません。これでは沖田さんは動けるはずもありません。マンガでは沖田さんが混乱して固まってしまった理由を、轟さんが一丸さんに説明していますね。

沖田さんは桜坂さんから「沖田さん、ふわふわで窓台のホコリをとってください」といわれたら、はい、と答えててきぱき動きます。なぜてきぱきと動き出せたのかは、桜坂さんの指示を分析すれば簡単に分かります。
誰が(沖田さんが)、何を(ふわふわで)、どうする(窓台のホコリをとる)が明確で、言われた沖田さんが体験記憶を検索したり、相手の気持ちを想像したりする必要なんて一切ありません。
「想像力の障がい」がある自閉症のひとには、いちいち体験記憶を検索したり相手の気持ちを想像したりする必要がない「誰が、何を、どうする」を明確にした言葉をかけられれば、淀みなく適切な行動をとることができるのです。
また、曖昧な表現や比喩や冗談は、それを受け取った方で、体験記憶を検索したり相手の気持ちを想像したりしなければ意味が分かりません。やっと自閉症のひとには曖昧な表現や比喩や冗談が通じにくい理由もはっきりしました。
ここまで考察を進めて、マンガepisode6の終わりに轟さんが言っている「彼らが力を発揮できる環境を整える。それが私たちの仕事です」とは、単に場所や道具を整えるだけではなく、障がいのある社員に対する分かりやすい言葉がけも含めてのことだと確信しました。
清掃作業を見学すると、今でも一丸さんは所謂ファミコン言葉を時々使っています。それなのに沖田さんも他のスタッフも正しく動けています。
やんぬる哉、おかしなファミコン言葉が彼ら清掃スタッフの記憶の集積所に書き込まれてしまった故でしょう。