英太郎のひとりごと episode8 part-2
どうして目を見て話さないのですか?
僕たちが見ているものは、人の目ではありません。
「目を見て話しなさい」とずっと言われ続けても、僕はいまだにそ
れができません。相手の目を見て話すのが怖くて逃げていたのです。
僕はどこを見ていたのでしょうか。
みんなにはきっと、下を向いているとか、相手の後ろを見ている
と思われているのでしょう
僕らが見ているものは、人の声なのです。
声は見えるものではありませんが、僕らは全ての感覚器官を使っ
て話しを聞こうとするのです。
相手が何を言っているのか聞き取ろうと真剣に耳をそばだててい
ると、何も見えなくなるのです。目に映ってはいますが、それは何
かを意識できません。意識できないということは、なにも見ていな
いのと同じです。
僕がずっと困っているのは、目を見ていれば相手の話をちゃんと
聞いていると、みんなが思い込んでいることです。
目を見て話すことができるくらいなら、僕の障がいはとっくに治
っています。(引用終了、「障害」を「障がい」に変更しました。)
作家、詩人、絵本作家として活躍している重度の自閉症のある東田直樹氏が中学生(13歳)の時に書いた『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』会話のできない中学生がつづる内なる心の第二章「どうして目を見て話さないのですか?」から思い切って全文を引用しました。
私は今回のエッセイを書くにあたり、なぜ自閉症のあるひとは相手の目を見ることが苦手なのか、その理由が書いてあるものはないかと、手元にある専門家の著した自閉症関連の本を読みなおしました。それらには自閉症の特性として視線回避があるとの記載はあっても、視線回避を行う理由の記述はありません。
次に玉石混交に戸惑いながらも、ネットに公開されている学術論文から出所の怪しい記事にも目を通しましたが、これだっ!と言う説明には行き当たりません。
ならば自分の場合はどうだと、自分の頭の中を浚(しゅん)渫(せつ)するつもりで調べてみたのですが、なぜ相手を見ることも見られることも不愉快なのか、不愉快になる理由が漠としていて、うまく言葉にすることができません。見つからない、言葉にできないでイライラして、おそらく社内に不機嫌をばらまいていたであろう、相手の目を見ることが苦手な理由調査開始から三日目の午後にたどり着いたのが、上に引用した東田直樹氏の文章です。
なんと素直な文章でしょう。何のケレン味もなく自分の心情を分かりやすい言葉で吐露しています。果たして13歳の私がこのような透明感のある文章が書けたでしょうか。
私の文章力云々はどうでもよいことなので、目を見て話さない理由に注目しましょう。「相手の目を見て話すのが怖くて逃げたい」と13歳の東田氏は言います。
私は「相手を見ることも見られることも不愉快」と何度も書きました。白状すると、東田氏の言う怖くて逃げたい気持ちは私にもあります。大人として体裁を繕いたかったので、不愉快と書いただけです。
コミュニケーションのハンデキャップ
ここでRicher & Coss(1976)の興味深い研究データを引用します。
成人顔面の両目開眼、片目閉眼、両目閉眼の三種類の表情を見た時の自閉症児と定型発達児の反応を比較したとき、両目開眼に対しては定型発達児は30秒あたり17秒見たが、自閉症児は視線回避をはっきり示し(両目開眼の顔面を)見たのは1秒以下であり、両目閉眼に対して自閉症児は2秒と両目開眼より長く見た。同時に測定した恐怖反応は、定型発達児では両目開眼に対し恐怖反応の出現率は10%程度であったが、自閉症児は40%であった。両目閉眼に対する恐怖反応の出現率は定型発達児自閉症児も10%程度であった。このことは、他者の視線は、たとえ友好的な視線であっても、自閉症児に対しては不快(恐怖)刺激となる可能性が高いことを示している。
また、次のようなプレスリリースもありました。全文を読みたい方は文末のアドレスにアクセスしてください。
東京大学大学院医学系研究科精神医学分野の准教授 山末英典、同統合生理学分野の大学院生 渡部喬光らのグループは、自閉症スペクトラム障がいの当事者では、他者が自分に対して友好的か敵対的かを判断する際に、顔や声の表情よりも言葉の内容を重視する傾向があること、また、その際には内側前頭前野と呼ばれる脳の場所の活動が有意に弱いことを初めて示しました。さらにこの内側前頭前野の活動が減弱しているほど臨床的に観察されたコミュニケーションの障がいの症状が重いことを示しました(科学技術振興機構「戦略的創造研究推進事業 CREST」および文部科学省「脳科学研究戦略推進プログラム」による成果より引用)。
https://www.m.u-tokyo.ac.jp/news/admin/release_20120623.pdf
二つの引用を要約すると、自閉症スペクトラム障がいの当事者は、他者の視線は、たとえ友好的な視線であっても40%が不快(恐怖)を覚え、他者が自分に対して友好的か敵対的かを判断する際には、顔や声の表情よりも言葉の内容を重視する傾向があるとなるでしょう。
以前、私のようなASDや自閉症のある人は「その場その場で臨機応変に相手の気持ちを想像する能力」が弱いと書きました。もともと相手の気持ちを想像する力が弱い上に、私のようなASDや自閉症のある人は、相手が友好的か敵対的かを判断する際には、顔や声の表情よりも言葉の内容を重視する傾向があり、たとえ友好的な視線であったとしても40%が恐怖を感じてしまっている状態になっていることが二つの引用から分かります。こう考えると、私のようなASDや自閉症の人は、視線や表情や顔色、声のトーン、話す速度、ジェスチャーなどの言葉以外の要素で相手の心情などを読み取るノンバーバル・コミュニケーションで9割近い情報をやり取りしている定型発達の人と比べると、人対人のコミュニケーション活動で情報をやり取りするには、かなりのハンデキャップを抱えていると思います。
視線回避の理由
ASDや自閉症のある人はマルチタスク、いくつかのことを並行して行うことが苦手です。マルチタスクについては、詳しくは項をあらためて考察したいと考えていますが、マルチタスクが苦手だと、人と人のコミュニケーションでどんな問題が生じるか、私の場合を例にとり考えてみます。
例えば恐怖を押し殺して相手の目を見ようとすると、目を見ることに意識が集中して相手の視線を追ってしまい、相手が何を話しているか聞き取れなくなります。話というよりも音として聞こえてきてしまいます。
言葉の内容で相手の気持ちを判断しようとしても、話の内容の理解に意識を集中すると、相手の表情や口調にジェスチャーまでは意識が回りませんから、どこまでが冗談で、どこからが本気か分からなくなります。
真剣に話を聞いて理解しようとしている風な演技をしていると、演技だけで精いっぱいで、話の内容についていけず、頓珍漢なタイミングで相槌を打つかもしれません。全神経を話しの内容の聞き取りと理解に向けたら、他のものは意識から飛んでしまいますから、そのときのこちらの行動は、定型の人から見たら、まじめに話を聞いているとは思えない態度に映るかもしれません。
一事が万事こんな調子ですから、相槌を入れるタイミングなんて、正直なところ全く考えが及びません。傍から見たら、まるで絵にかいたようなコミュニケーション障がいの典型ですね(苦笑)。
ここまでお読みいただいた方は、私たち自閉症の当事者が、相手の目を見ることが難しい理由がお分かりいただけたと思います。目を見ることに意識を集中したら、話の内容が理解できなくなってしまいます。恐怖だけではなく、やむなく視線回避をしていると理解してもらえるとうれしいです。
私が、就活以降もコミュニケ―ションが取れているように見える演技を嫌々ながらも続けているのも、続けないと社会人として失格との烙印を押されかねないこと知っているからです。コミュニケーションに関しては、能力が向上することについてはとうにサジを投げていますが、せめて作業の指示はepisode7で書いたように、「誰が何をどうする」と書いてくれると助かります。
このエッセイは英太郎のひとりごとですから、最後に相手の目を見ないことに関する私個人の考えを書きます。私は相手の目を見ることによる不快(恐怖)反応は、人を人たらしめている大脳皮質に由来する反応ではなく、もっと動物的な反応ではないかと思っています。
愛玩犬の小さいチワワやトイプードルが散歩中に出会ったときの、互いに目を合わせて唸る行動に近いんじゃないかと感じています。
どちらが先に見たとか見られたではなく、目を合わせること自体に不快(恐怖)があるのではないかと思います。
私はこのエッセイに、相手を見ること見られることの不快感の理由が漠として言葉にならないと書きました。唸る犬のような動物的な感覚からくる不快(恐怖)が原因であるとしたら、漠として言葉にならなかった理由も、何となくですが分かります。